2006年9月号 第1回フィリピンの悩み・日本の悩み

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に06年9月号から08年8月号まで連載していたコラムです。

子育てで最も難しいと思うことの一つが、子どもに謝らせることだ。こちらが「ごめんなさいって言いなさい!!」と声を大きくすればするほど、唇をギュッと閉じて「意地でもあやまらねえぞ!」という顔をする。お互い感情的になって、一歩も譲らない。こうなると完全にお手上げである。

しかし本当はそれ以上に難しいのは、子どもに謝ることだと思う。明らかに自分が悪いと分かっていても、「自分は親だから・・・」「大人には大人の事情があるのだ・・・」などと心の中でへ理屈を並べ立てて、ごまかそうとしてしまうのだ。

思えばこの国の社会の問題は、子どもが謝らないことよりも、むしろ大人が謝らないことではないだろうか。自分に非がありながら、それを認めようとせず、何とか自分を正当化しようとする。子どもはそんな大人の心を見透かし、さげすんでいるのだと思う。

同志社の創立者、新島襄は学内で問題が起こった時、学生を責めるのではなく、「すべては自分の責任」だと言って、朝礼の時間に皆の前で何度も自分の手を杖で打ちたたいた。血がにじみ、とうとう杖が折れてしまった。それを見た学生たちが耐え切れず「先生、悪いのは自分です」と言って止めたという。いわゆる「自責打掌事件」のエピソードだ。


ういえば、自分の経験でも、先に「パパが悪かったよ。ごめんね」と言うと、子どもは「うん」と言ってとたんに素直になる。自分の非を認めることはとても難しいことだが、実はだからこそ価値ある行為でもある。

聖書に「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」という言葉がある。謙遜になって、自分の非は素直に認め、相手を尊重する気持ちを、互いに持つことができるなら、親と子の関係、教師と児童・生徒の関係は劇的に変わり、社会全体にも変化を与えることができると思う。素直になれる大人を、子どもは決してさげすみはしない。


  

2006年09月01日

2006年10月号 第2回 子供には無限の存在価値がある

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

資料は少し古いが、ベネッセ教育研究所(当時)が、1995年に行った調査*で、東京、ソウル、北京、ミルウォーキー、オークランド、サンパウロの小学生に、「勉強ができる」「人気がある」「正直である」などの自己評価をさせたところ、すべての項目にわたって東京の子供が突出して低いことが分かった(文部科学省 「家庭教育手帳」2003年・東京都版)。「自分はできない。」「自分はだめだ。」と必要以上に自信を失っている子供が日本には多いのだ。そしてそれは親の満足感の低さや、子供の個性が大切にされていないことの反映ではないかと分析されている。

昨今の日本の子供たちが引き起こす悲しい事件の背景には、自分に価値を見いだせない、健全な自尊心を持てない子どもたちの心の悲鳴があるのではないか。「自分は生きていていいんだ」「自分には価値がある」「自分の存在は必要とされている」。そんな風に感じることのできない子どもは不幸である。

アメリカ人の教師にこんなことを教えられた。子供に対して”You are bad”(おまえは悪い)と叱ってはならない。”What you did is bad”(おまえがやったことは悪い)と言いなさい、と。子どもの存在そのものと行為とを明確に区別するということだ。

聖書の中で「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と神が人間に語っている言葉がある。我々は、何かができるから価値を認められるのではなく、存在していること自体に価値があり、愛されるべきであると認められているのである。

私たちも子供たちに対して、何かができるからという「行動価値」ではなく、存在そのものに価値があるという「存在価値」をしっかりと認め、表現し、彼ら自身にもそれを信じさせる必要があるのではないだろうか。自分の中に価値を見出せない者がどうして、他人の価値を認めたり、尊重したり、受け入れたりすることができるだろうか。大人はまず子供たちに、彼ら自身に無限の価値があることを知ることができるように、導くべきではないだろうか。 2006年10月号掲載

*「別冊モノグラフ・小学生ナウ 第5回国際シンポジウム報告書」(ベネッセ教育研究所 1997年8月)


2006年10月01日

2006年11月号 第3回 コミュニケーションは共感する力

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

結婚前のことであるが、妻に話があると呼び出されたことがある。私たちは結婚したらすぐにフィリピンにある神学校に行くことになっていた。会うと妻がめそめそ泣いている。どうしたのかと聞くと「私英語で勉強する自信がない。行けない」と言うのだ。これは一大事とありとあらゆる言葉で彼女を励まそうとした。「少しずつ単位をとればいいんだよ」とか「卒業なんて考えないで興味のある科目だけ聴講したらどうだい」とか。ところが30分経っても1時間経っても泣き止む気配はない。ついに私は一大決心をする。「分かった。もう留学はやめよう」・・・ところがそれを聞いて彼女が何と言ったか。「私一人でも行く」「・・・お前どっちやねん!!」

その時彼女が求めていたのは彼女の不安な気持ちに共感できる人であって、解決を与えてくれる人ではなかったのだ。以来このようなコミュニケーションミスにしばしば苦しんでいる。

これはたわいもない夫婦の話だが、思えばこれだけ情報伝達技術が発達した時代にあって、他者が何を考えているのか分からないという深刻な悩みを抱える社会はなかったのではないだろうか。突然切れだす子供たち、離婚を求める妻たち、私たちは日頃何を人に伝え、何を受け止めているかをしっかりと反省しなければならない時代に生きている。

コミュニケーションという言葉は単に情報を伝達するという意味ではない。語源はラテン語の「communicatio」でもともとは「共有する」「分かち合う」という意味だ。自分を理解させようとする前に、相手をまず理解し、相手の痛みや悩みや苦しみさえも、共有しようとして始めて自分の持っているものも伝達できるということだ。

聖書に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」という言葉がある。他者の思いに共感し、他者の喜びや悩みを共有することの大切さを説いているのである。私たち一人ひとりが、相手に何を伝えるかよりも、どう相手の心に共感するかに心を砕くのであれば、意思の疎通もだいぶ良くなるのではないだろうか。

教師も伝える力だけではなく、共感する力が求められているのだと思う。


  2006年11月号掲載

2006年11月01日

2006年12月号 第4回 「教えること」とは、人格を通して導くこと

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

「人生は出会いで決まる」などという言葉は少々古臭くて安っぽく聞こえるかもしれないが、良い教師との出会いは確かに人生を決めると思う。私も多くの良き教師との出会いに恵まれてきた者であるが、その一人にフィリピンの神学校で教えていただいた先生がいる。その先生は、授業中のみならず色々な場面で私の人生に良い影響を与えてくださった。よく学生たちを食事に誘っては、学ぶことの動機や、問題意識を持って物事を見る目の大切さを教えてくれた。先生は常に、どんな学生にも期待を掛け、その学生の持っている可能性を引き出そうとした。私のような英語の苦手な者にもよく声をかけ、励ましてくれた。振り返ってみれば、先生は忍耐強く私たちの成長を促してくれていたのだと思う。そのような先生の人格そのものに惹かれて、何とか期待に応えたいと思ったものだ。先生は知識以上に大切なことをたくさん教えてくれた素晴らしい「教師」である。

イエス・キリストも偉大な教育者であった。弟子たちと寝起きを共にしながら、単なる聖書知識以上の大切な生き方を示し、弟子たちの人格と人生を変えていったのである。

聖書の中に「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」という言葉がある。人を本当の意味で成長させるのは、知識ではなく、愛だというのだ。知識そのものが悪いのではない。それを伝える側、受ける側との間に、愛を土台とした信頼関係が必要なのだ。教育という観点で見るならば、教え子を理解し、受け入れ、良いところを伸ばしていこうとする忍耐や、与えられた知識をどのように使うかということを指し示すことなど、愛に基づいた人格と人格との触れ合いが大切なのではないだろうか。

人に教えるということは知識の伝達よりも、人格を通して影響を与えることだと思う。自分もそのような教育者になりたいものだといつも思っているのだが、恩師に近づくのはいつの日のことやら・・・。

  2006年12月号掲載

2016年10月04日

2007年1月号 第5回 子どもたちに輝かしい未来への夢を

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

先日シンガポールの牧師からこんな話を聞いた。高校生になる彼の娘が、一時成績がひどく落ち込み、学校からこのままでは退学になるとまで言われた。そこで牧師は娘に「君は将来どんな仕事をしたいんだい」と尋ねた。彼女はしばらく考えた後「・・・会計士」と答えた。「それは素晴らしい仕事だねえ」と、その仕事がどれほどやりがいのある、多くの人を助ける仕事か話をした後、「ところでその会計士になるためにはどういう勉強が必要なんだい」と尋ねた。それをきっかけにじっくりと彼女自身の将来の夢を引き出すことができた。その後どうなったかと言うと、以来彼女はめきめきと成績を上げ、数学は学校で一番になったそうだ。少々出来すぎた話の感もあるが、将来の夢・ビジョンというものが、どれほど若い魂を突き動かすエネルギーとなるかという良い例だと思う。

想像力は、あらゆる動物の中で人間だけに与えられた偉大な能力の一つだ。人間だけが、見たこともない異国の地を想像し、経験したことのない将来を想像し、未来の自分や世界を想像する。だから人間は、その想像力を十分に駆使して、大きなビジョンを持って未来を切り開いていくことを期待されるのである。キング牧師は「私には夢がある」と語り、黒人差別が激しかった社会の中で、誰も信じることができなかったビジョンを実現させた。

聖書には「幻(ビジョン)がなければ人は迷ってしまう」という意味の言葉がある。ビジョンは人に指針や動機を与えるものだ。もしそれがなければ、今自分がしていることに意味を見出せないし、どこに進んでいいのかも分からないということだ。

今この国の子供たちは目先の成績や進路、狭い人間関係だけに目を奪われ、将来に夢を持つことが難しくなっているように見える。彼らが自分たちの輝かしい未来を思い描き、大きなビジョンを持ち、困難にも挑戦していけるように励ましてゆくことが、教師や親たちや、社会全体の責任であるように思う。


  2007年1月号掲載

2016年11月01日

2007年2月号 第6回 子どもを生かす言葉、芽を摘む言葉

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

 アメリカの新古典主義の画家、ベンジャミン・ウェスト(1738-1820)は、自分が画家になったきっかけをよく人に話していたそうだ。子どもの頃、妹と2人で留守番をしていた彼は、家にインクの瓶があるのを見つけて妹の肖像画を描き始めた。筆からはインクが垂れ、じゅうたんを染みだらけにしてしまった。帰宅した母はしかし、それを叱ることなく、絵を手にとって、「まあ、サリー(妹の名)ね」と彼にキスしたそうだ。その母の口づけが自分を画家にしたと、彼は後々まで語っていたという。

 人の潜在的な能力を引き出すのは、叱責や脅しではなく、励ましや、誉める言葉ではないだろうか。1つの言葉で、子どもは才能を開花させることもあるし、芽を摘み取られることもある。

 聖書には、ある父親が死ぬ間際に子どもを祝福する場面があって、その言葉には後で取り消すことができないほどの威力があった。口から出した言葉はその通りになると考えられていたからだ。口にする言葉の重要性を聖書は一貫して教えている。

 親や教師の言葉は良くも悪くも子供の人生に影響を与える。子供のあらを探して、「部屋が汚い」、「どうしてこんな成績しかとれないんだ」というようなネガティヴな言葉ばかり聞かされていては、子どもの心には不安や劣等感しか生まれないだろうし、時には怒りを持たせることにもなるだろう。しかし、彼らの良い面を積極的に見て、励ましたり、褒める誉める言葉は、きっと彼らの健全なセルフイメージと、生きてゆく自信を生み出す。子どもたちは自分が受け入れられ、愛されていることを常に感じる必要があるのだ。

 いじめや自殺のニュースが私たちの心を暗くしているが、「君は素晴らしい」「君は大切だ」「君はできる」などの積極的な言葉を、親や教師からかけられることを待っている子供たちがたくさんいるのだと思う。


  2007年2月号掲載

2016年11月01日

2007年3月号 第7回 互いの違いを受け入れて

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

 
フィリピンでの数年間の生活では、当初はいらいらさせられることが多かった。例えば靴屋に入ると、店員が自分の好きなCDをかけ、客にはお構いなしに大声で歌いまくっているし、レストランでは、ウェイトレスがテーブルに腰掛けて足をばたばたさせて、他の店員とおしゃべりしていた。日本では考えられないが、こんな光景は当地では珍しくない。しかし、彼らを知るにつれ、逆に家族を大切にする価値観や、人生をエンジョイしようとする生き方に、教えられることが多くなった。日本は確かに経済大国として成功を収めた素晴らしい国だが、日本の基準がすべて他の国でも基準になるわけではないことを知った。

当時私のいた学校では20カ国以上から学生が集まっていたのだが、豚肉を食べる習慣のない国の人もいれば、豚の丸焼きがごちそうという国の人もいた。首を横に振るので、嫌なのかと思ったら、OKの意味だったり、手招きするのでそばに行ったら、バイバイの意味だったこともあった。

どんな国の文化も違って当然だし、その違いを受け入れあって初めて互いが理解できるのだ。

顧みて、この国の子供たちの姿を見ていると、小さな違いを受け入れるどころか、排除の種にしてしまうところがあって、「皆から浮いたらいじめられてしまう」というような恐れがあるように思える。

聖書には「キリストが(中略)私たちを受け入れてくれたように、あなたがたも互いに受け入れあいなさい」という言葉がある。お互いの違い、弱さ、失敗などを受け入れ合って初めて、人間は理解しあい、共同で何かをなすことができる。

グローバル化でますます地球規模の交流が大きくなる時代に、幼い時から、互いの違いを尊重する生き方、違いを受け入れ合う考え方を教えなければ、日本はますます窮屈な国になっていくだろう。それこそ世界から、浮いてしまうのではないか。それにはまず大人たちが、そのような生き方を志していかなければならないのだが・・・。


  2007年3月号掲載

2016年12月01日

2007年4月号 第8回 人はその友によって研がれる

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。


これは東京の神学校で学んでいた頃のことだが、その学校は全寮制ですべての学生が相部屋で暮らすことを義務付けられていた。私にとっては、これは結構つらい環境だった。何しろ、皆が20歳前後の同年配同士なら良いのだろうが、私も含め、その学校の学生の年齢、背景は多岐にわたっていて、しかも、共同で何かをやる機会が非常に多い。私は9年間の会社員生活の後に入学したのだが、私よりも年上もいれば、学校を出たての年下もいた。そんな人間たちが、朝早くから祈り、掃除、奉仕、そして勉強に明け暮れる生活で、ストレスがたまってぶつかりあうこともしばしばあった。

しかし今から思えば、そのようなぶつかりあいの中で、プライドが砕かれたり、コンプレックスを癒されたり、他人を理解したり、自分の思いを伝えたり、何より仲直りして、壊れた人間関係を修復するすべを学んでいったような気がする。こういうことは、同年齢の人が集まる学校の教室では経験しようがないことだと思う。

聖書には「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」という言葉がある。人は独りでは成長することはできない。人が成長してゆくためには、誰かとのかかわり合いが必要だということだ。時には信頼しあい、時にはぶつかりあい、時には励まされたり、慰められたり、また時には裏切られたり、痛い思いをすることもあるだろう。そういう中で、自分を理解したり、相手を受け入れたり、赦したりすることを学んでいくものだ。

日本は今ITや携帯電話などのコミュニケーション技術は飛躍的に発展しているが、その中身はどうであろうか。心と心の触れ合いや、人格と人格とのかかわりがどれほど持たれているだろうか。

コミュニケーションの「手段」だけではなく、相手とのかかわり合いの中で、どのように互いに成長してゆくかという視点も、忘れないようにしたいものだ。


2016年12月01日

2007年5月号 第9回 「他人に仕える心」を養う

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

 

のっけから家族の話で恐縮だが、5歳になる娘が「競争ブーム(?)」である。とにかく人と張り合おうとする。例えばお友達とどちらが先にトイレに着くか競争したり、階段を上るのを競争したり・・・。そして負けると泣いてくやしがる。親ともトランプ遊びなどをして負けると、とても機嫌が悪くなる。これも一つの成長過程なのだろうが「一体誰に似たのか?」と妻と2人で頭を抱えている。

他人と自分を比べ、人に負けたくないという競争心を持つことは、人間に本来備わっている性質であろうか。そういえば聖書にも、イエス・キリストの弟子たちが「誰が一番偉いか」と論じあっている場面が、何度も描かれている。あろうことか、最後の晩餐の席でさえ、そのような話題になったようだ。いつも人よりも上に立ちたい、偉い人と思われたいと考えていた弟子たちに対しイエスが諭した言葉が興味深い。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」聞いた者たちはびっくりしたに違いない。どのような文化であれ、どのような時代であれ、偉い人というのは「人に仕えられる人」と決まっているのだから。

競争心を持つこと自体は、自然なことだと思う。良い動機からくる健全な競争心であるなら、それは人を成長させ、社会を進歩させるだろう。しかし「勝つことだけが全て。負けたら自分の存在価値がない」という不健全な競争心だけになってしまったら、人間の心は貧しく、窮屈で、自分のことしか考えられなくなってしまうだろう。小さな頃から、不健全な競争心だけをあおられて成長してゆく子どもは、かわいそうだと思う。

人を押しのけてでも競争に勝つ“勝者”ではなくて、他の人を助け、人の役に立つ人が、本当に偉い人なのだと思えるようになれば、随分心が豊かになるし、人生の選択肢も増えるのではないだろうか。

健全な競争心をはぐくむと同時に、他の人を愛して、喜んで仕える心を養うことも、教育の重要な役割だと思う。


  2007年5月号掲載

2017年01月01日

2007年6月号 第10回 

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。
 

海外で生活していたとき何よりもストレスを感じたことは、自分の思っていることをうまく伝えられなかったことだ。自分がどんな苦労をしているか、どんな喜びを感じているか、どんな夢を持っているかを、上手に伝えられないもどかしさは、文字通り言葉に表せない ストレスであった。月に一度だけ数人の日本人が集まる機会があって、その時には皆夜更けまであれやこれやと語り合った。日本語で話ができて、自分の考えを聞いてもらえて、理解してもらえる喜びがあんなに大きなものだったとは思わなかった。

思えばこれは、人間の根源的な欲求なのではないかと思う。皆自分の不安や喜びを、誰かに聞いてもらいたいし、理解してもらいたいのだ。

「教える」というと、「話す」とか「伝える」「理解させる」ということをイメージさせるが、「聴く」「理解する」ということも大切な要素だと思う。

イエス・キリストは、ただ人々に教えただけではなく、聴くこと、理解することにもたけていた教師だった。彼を頼って夜中に訪ねてきた学者の人生の悩みに耳を傾け、結婚生活が破綻していた女性とじっくり語りあった。どんな時代、どんな文化でも、人間の根源的な欲求は変わらないのだ。

子どもたちも誰かに聞いて欲しいし、理解して欲しいと思う。どんな年齢であっても、皆誰かに聞いて欲しいものを持っているし、それをうまく伝えることができない葛藤をおぼえているのだ。私の娘もよく「パパ、聞いて!」と言う。そんな時は、自分だけが一方的に話していて、それで育てているつもりになっていたのかとはっとさせられる。じっくり聞いて、理解してあげることの大切さと同時に、その難しさも痛感させられる。決して簡単なことではないが、「聴くこと」「理解すること」も大切な教育の一面だということを忘れないようにしたい。


  2007年6月号掲載

2017年02月01日

2007年7月号 第11回

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

 

留学して、どんな国の学生にも共通の楽しみがあることが分かった。それは教師の「物まね」である。日本の神学校でも、先生の説教や授業での口癖や、しぐさをまねし合っては盛り上がっていたが、海外でも同じだった。クリスマスパーティーなどで学生たちの披露合戦となるのだが、眼鏡の触り方、ネクタイの趣味、声の出し方など実によく観察されていて感心したものだ。

面白いことに、周りの人はすぐに誰のまねか分かって爆笑するのだが、本人だけが分からずにきょとんとすることが多い。自分にどんな癖があるのか気付いていないということだろう。

それにしても、教師はよく学生から観察されているものだ。何を教えているかよりも、どんな癖があるのか見つけさせるために授業をしているのではないかと思うくらいだ。

私にもきっと自覚していない癖があるだろうから、もしかしたら陰でまねされて、笑われているかもしれない。

癖を見つけられるくらいなら構わないが、自分の自覚していないことまで、学生たちに観察されているということは恐ろしいことだ。無意識のうちに、学生たちの価値観や生き方にまで影響を与えるとしたらものすごく責任が重い。望むと望まざるとに関らず、教師は授業で発する言葉だけでなく、それ以上の影響を与える存在だと思う。

初期のキリスト教信仰を広めたパウロという教師は「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(聖書)と言うことができた。これは驚くべき言葉だ。教えの言葉だけではなく、生き方そのものを見習えとはなかなか言えるものではない。が、教師にはもともとそれくらいの覚悟が必要なのかもしれないとも思う。

もとより完璧な人間など存在しないし、誰でも弱さを持っているものだが、「教えていることが間違っていなければ良いだろう」ではなく、生き方そのものが、良い影響を与える教師になりたい、というのが私の願いである。

2017年02月01日

2007年8月号 第12回 

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に06年9月号から08年8月号まで連載していたコラムです。

 

子育てで最も難しいと思うことの一つが、子どもに謝らせることだ。こちらが「ごめんなさいって言いなさい!!」と声を大きくすればするほど、唇をギュッと閉じて「意地でもあやまらねえぞ!」という顔をする。お互い感情的になって、一歩も譲らない。こうなると完全にお手上げである。

しかし本当はそれ以上に難しいのは、子どもに謝ることだと思う。明らかに自分が悪いと分かっていても、「自分は親だから・・・」「大人には大人の事情があるのだ・・・」などと心の中でへ理屈を並べ立てて、ごまかそうとしてしまうのだ。

思えばこの国の社会の問題は、子どもが謝らないことよりも、むしろ大人が謝らないことではないだろうか。自分に非がありながら、それを認めようとせず、何とか自分を正当化しようとする。子どもはそんな大人の心を見透かし、さげすんでいるのだと思う。

同志社の創立者、新島襄は学内で問題が起こった時、学生を責めるのではなく、「すべては自分の責任」だと言って、朝礼の時間に皆の前で何度も自分の手を杖で打ちたたいた。血がにじみ、とうとう杖が折れてしまった。それを見た学生たちが耐え切れず「先生、悪いのは自分です」と言って止めたという。いわゆる「自責打掌事件」のエピソードだ。

そういえば、自分の経験でも、先に「パパが悪かったよ。ごめんね」と言うと、子どもは「うん」と言ってとたんに素直になる。自分の非を認めることはとても難しいことだが、実はだからこそ価値ある行為でもある。

聖書に「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」という言葉がある。謙遜になって、自分の非は素直に認め、相手を尊重する気持ちを、互いに持つことができるなら、親と子の関係、教師と児童・生徒の関係は劇的に変わり、社会全体にも変化を与えることができると思う。素直になれる大人を、子どもは決してさげすみはしない。


  2007年8月号掲載

2017年09月29日