2007年7月号 第11回

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

 

留学して、どんな国の学生にも共通の楽しみがあることが分かった。それは教師の「物まね」である。日本の神学校でも、先生の説教や授業での口癖や、しぐさをまねし合っては盛り上がっていたが、海外でも同じだった。クリスマスパーティーなどで学生たちの披露合戦となるのだが、眼鏡の触り方、ネクタイの趣味、声の出し方など実によく観察されていて感心したものだ。

面白いことに、周りの人はすぐに誰のまねか分かって爆笑するのだが、本人だけが分からずにきょとんとすることが多い。自分にどんな癖があるのか気付いていないということだろう。

それにしても、教師はよく学生から観察されているものだ。何を教えているかよりも、どんな癖があるのか見つけさせるために授業をしているのではないかと思うくらいだ。

私にもきっと自覚していない癖があるだろうから、もしかしたら陰でまねされて、笑われているかもしれない。

癖を見つけられるくらいなら構わないが、自分の自覚していないことまで、学生たちに観察されているということは恐ろしいことだ。無意識のうちに、学生たちの価値観や生き方にまで影響を与えるとしたらものすごく責任が重い。望むと望まざるとに関らず、教師は授業で発する言葉だけでなく、それ以上の影響を与える存在だと思う。

初期のキリスト教信仰を広めたパウロという教師は「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(聖書)と言うことができた。これは驚くべき言葉だ。教えの言葉だけではなく、生き方そのものを見習えとはなかなか言えるものではない。が、教師にはもともとそれくらいの覚悟が必要なのかもしれないとも思う。

もとより完璧な人間など存在しないし、誰でも弱さを持っているものだが、「教えていることが間違っていなければ良いだろう」ではなく、生き方そのものが、良い影響を与える教師になりたい、というのが私の願いである。

2017年02月01日