この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。
海外で生活していたとき何よりもストレスを感じたことは、自分の思っていることをうまく伝えられなかったことだ。自分がどんな苦労をしているか、どんな喜びを感じているか、どんな夢を持っているかを、上手に伝えられないもどかしさは、文字通り言葉に表せない ストレスであった。月に一度だけ数人の日本人が集まる機会があって、その時には皆夜更けまであれやこれやと語り合った。日本語で話ができて、自分の考えを聞いてもらえて、理解してもらえる喜びがあんなに大きなものだったとは思わなかった。
思えばこれは、人間の根源的な欲求なのではないかと思う。皆自分の不安や喜びを、誰かに聞いてもらいたいし、理解してもらいたいのだ。
「教える」というと、「話す」とか「伝える」「理解させる」ということをイメージさせるが、「聴く」「理解する」ということも大切な要素だと思う。
イエス・キリストは、ただ人々に教えただけではなく、聴くこと、理解することにもたけていた教師だった。彼を頼って夜中に訪ねてきた学者の人生の悩みに耳を傾け、結婚生活が破綻していた女性とじっくり語りあった。どんな時代、どんな文化でも、人間の根源的な欲求は変わらないのだ。
子どもたちも誰かに聞いて欲しいし、理解して欲しいと思う。どんな年齢であっても、皆誰かに聞いて欲しいものを持っているし、それをうまく伝えることができない葛藤をおぼえているのだ。私の娘もよく「パパ、聞いて!」と言う。そんな時は、自分だけが一方的に話していて、それで育てているつもりになっていたのかとはっとさせられる。じっくり聞いて、理解してあげることの大切さと同時に、その難しさも痛感させられる。決して簡単なことではないが、「聴くこと」「理解すること」も大切な教育の一面だということを忘れないようにしたい。
2007年6月号掲載