2006年12月号 第4回 「教えること」とは、人格を通して導くこと

この記事は時事通信社出版局発行「教員養成セミナー」に連載しているコラムです。

「人生は出会いで決まる」などという言葉は少々古臭くて安っぽく聞こえるかもしれないが、良い教師との出会いは確かに人生を決めると思う。私も多くの良き教師との出会いに恵まれてきた者であるが、その一人にフィリピンの神学校で教えていただいた先生がいる。その先生は、授業中のみならず色々な場面で私の人生に良い影響を与えてくださった。よく学生たちを食事に誘っては、学ぶことの動機や、問題意識を持って物事を見る目の大切さを教えてくれた。先生は常に、どんな学生にも期待を掛け、その学生の持っている可能性を引き出そうとした。私のような英語の苦手な者にもよく声をかけ、励ましてくれた。振り返ってみれば、先生は忍耐強く私たちの成長を促してくれていたのだと思う。そのような先生の人格そのものに惹かれて、何とか期待に応えたいと思ったものだ。先生は知識以上に大切なことをたくさん教えてくれた素晴らしい「教師」である。

イエス・キリストも偉大な教育者であった。弟子たちと寝起きを共にしながら、単なる聖書知識以上の大切な生き方を示し、弟子たちの人格と人生を変えていったのである。

聖書の中に「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」という言葉がある。人を本当の意味で成長させるのは、知識ではなく、愛だというのだ。知識そのものが悪いのではない。それを伝える側、受ける側との間に、愛を土台とした信頼関係が必要なのだ。教育という観点で見るならば、教え子を理解し、受け入れ、良いところを伸ばしていこうとする忍耐や、与えられた知識をどのように使うかということを指し示すことなど、愛に基づいた人格と人格との触れ合いが大切なのではないだろうか。

人に教えるということは知識の伝達よりも、人格を通して影響を与えることだと思う。自分もそのような教育者になりたいものだといつも思っているのだが、恩師に近づくのはいつの日のことやら・・・。

  2006年12月号掲載

2016年10月04日